大橋巨泉氏が語るインタビュー記事、「金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった」を読んだら、僕らの見ているテレビって、ちょっと内側に回ってみると切ない世界なのかもな。と思えてきました。
▼記事より引用。
-なぜ、つまらなくなってしまったのでしょうか。大橋 1つの原因は、編集技術の大進歩です。
69年から71年までやった「巨泉・前武 ゲバゲバ90分」は、VTRはあったけど、編集は簡単にはできなかった。どうしても編集したいと思ったら、台詞とかバックの音楽を頼りに、はさみを入れてテープでつなぐ名人芸が必要だったわけですよ。
ところが、80年代に入ると、モニターを見ながら切れるようになった。それで、ディレクターはいいとこ取りをするようになったわけです。~
(中略)
~ 編集できるようになると、まずディレクターにメリットがある。彼らは自分の思うように、まるで映画監督のように番組を作れるわけですから。~
(中略)
~ただ、僕は映画は監督のものだけれど、テレビはホスト(司会者)のものだと思っています。だから、その辺のあんちゃんディレクターに、はさみを入れてほしくないんだな。僕は自分のテンポ、自分のリズムで司会をしているわけです。司会というのは会を司ると書くんだから。マスター・オブ・セレモニーだからね。
テレビで放映される番組を支配している人は、昔ならプロデューサーや、脚本家、司会者など、パーソナルな才能で事前にこれで面白いのか?に神経を使ったし、集中力も凄かったでしょう。
ドリフターズが土曜日の生放送をやるまえ、企画会議では毎日戦争だったとの、いかりや長介氏の話を思い出します。
米国の「ラリー・キングショー」「トゥナイトショー」といったトークショーは、今でも全部生です。でなければ、アドリブの良さが出ない。日本がやっているのがなぜつまらないかというと、タレントのアドリブで番組を作っているのに編集するからですよ。
長い尺でとりあえず回しておいて、使えるところをつなげて一本にするんでは、集中力が違うだろうし、出演者の芸の力点というか狙いが、ぶった切られてしまう危険性もあります。
なにより、面白いものを作れる能力というのは、人によって物凄く差があります。
台本を基にするということは、確実に常人よりもはるかに面白いとは何か?に通じた人が全体のクオリティを確保します。
その上で、飛びぬけた面白さを持つ才能だけが発揮することを許される。
しかし現在の場合だと、面白さについてはまだ迷いが有る正直修行中な人も、どこがどう面白いのか料理されてない人も入り込んで、それらを繋げる。
この仕組みに「面白さのクオリティを確保する」なんてものはないでしょうね。
引用したのはインタビューの前半のみだけども、それだけでも、どの局にしても代わり映えがしないのは、出演者の個性がミックスされてどんと出た。のではなく、それを編集者が脳内で理解できる範囲で成形してしまうからなんだなあ。
そして、どこでも同じように成形しちゃうから、面白さの記号はあるけど、わかり安すぎてツマランものになっちゃうのか。
なんてことが伺えます。
出演者達の側に回ると、意図してやろうが、偶然だろうが、イマイチ納得できなくても、とにかく製品として番組ができていくというのはどういうものなんでしょうかね。
誰かが代わりに入っても、番組の構成に変化はない制作体勢というのは、空虚だなあと感じるんでしょうか。
ゆえに自分が支配者になれる映画制作に流れるのかな。
そんなこもごもを抱きながらお気に入りだったテレビ番組を思い起こすと、今出演している人が抜けても成り立つ番組と、成り立たない番組っていうのがあって、「ああ、あの番組では、出演者のある種の芸を見ているんだな」「この番組は編集の技が面白くって見ていたんだな」ということに気が付きました。
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